さむらい街道さんぽ道

かつて歴史の表舞台で謳歌されたであろう華やかな街道。ノスタルジックな香り漂う歴史の足跡を現代の”侍”が巡る

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初めに、今般熊本周辺では地震による大災害が発生いたしました。
 衷心よりお見舞い申し上げます。
 被災にあわれた皆様のより早い復興をお祈り申し上げます。

 私は、2011年3月11日東北震災の時には何も出来ませんでした。
 
 私は2つの職業を持っております。
 1つは獣医師であり、1つは柔道整復師でもあります。
 2015年晩夏に群馬県では獣医師によるV-MATと言う組織の立ち上げの研修を行いました。
 人間ではD-MATと言う緊急対策医療チームに該当します。 
 2015年9月10日茨城県常総市の鬼怒川の氾濫がありました。
 この時のV-MAT は何もする事が出来ませんでした。

 なにもできなかったのではなくする必用が無かったと言うのが正しい表現てす、が。
 
 その説明をさせていただきます。
・折りしも群馬県では学会が行われており、関東の県獣医師会の会長が3名顔をそろえておりました、現地の情報状況が入り、トップ会談で対策が取られていたこと。
・詳細な情報が入るに連れ、現場獣医師、および当該県を上げての対策で充分な対応が出来る状況を確認できたこと。
・V-MATの予算も何も整っていなかった事。

 しかし、ここでも私は何もできない自分に憤りを感じておりました。

 そして、今回の熊本災害になります。

 当然V-MATの出動はあるものと思っておりました。 
 しかし群馬V-MATはまったく動く気配がありません。
 
・現在V-MATは群馬県と福岡県の2県でしか発足されておりません。
 現場は熊本であり遠隔地なので、近くの福岡隊の調査報告待ち次第と言う事になり、殆ど受身の状態です。
・予算が無い事。

 V-MATが初期行動ができないのは。
・現場で兵站を含む準備が充分整わなければ、被災者に迷惑が掛かってしまうばかりである。
・迂闊に現地入りしても2次災害に巻きこまれてしまうことも予想される。
 事実、今回は余震が続き、本震が後から来た。

 震災後4日目あたりで福岡V-MAT3名が現地入りし一週間目あたりに報告書を出しております。


 正直に申しますと、いくら創立したばかりのV-MATと言えど、何も行動しないのはおかしい、と感じておりました。
 せめて、調査、視察隊てだけでも出すべきだと考えておりました。

 すると日本獣医師会から視察団が構成され、現地視察団に群馬V-MAT隊員1名が加えられることになりました。
 震災後5日目の発動になります。

 ○ 急いては事をし損じる。 
 あわてて行動を起こすと、(失敗が多く)目的を達する事が出来ない。
 ですが、「鉄は熱いうちに打て。」もあると思います。
 特に獣医緊急対策医療チームと名乗る以上は。

 ここから、私の迷いが始まりました、ボランティア参加できないものか。・・・・・・・・
 色々な情報を集めます。

 行政関係から得られる情報はお決まり事ばかり、特にに獣医と骨接ぎについて調べてみます。

 最終的に各機関、会などに委託をしている状態です。

 話をしてみますと現地で活動している様子は伺えない。

 常総市の出来事のように、ボランティアが必要でないのか、必要なかは、行政の方では把握し切れていない様子が伺えた。

 これで悶々と一週間が経ちました。・・・・・・・

 背中を押してくれたのは不来方だった。
 彼が「GWは暇だ。」と言うのでカレンダーを見ると、長い休みが取れる状況だった。
 私「の飛行機の切符が取れるのかなあ。」の言動にパソコンで調べてくれて「切符がとれますよ。」の返事だった。
 調べてみると切符はある、高額ではあったがあった。
 
 * これで熊本行きが決定しました。
 ボランティア活動が上手くいくのか、それとも調査で終わるのか、それともまったく不必要で無駄な行為なのか。
 「やってみなければわからない。」

 これより、紀行文として書きまとめて行きます、物見遊山のつもりでは有りませんが、本人はお気楽な性格です、場合によってはご不快に思われる方もおられるかと思います。
 先にお詫びして訂正致して起きます。
 申し訳ありません。

4月28日 夕刻、飛行機の切符をネットで購入、、代金を振り込んだが、その後返事はなし。
 出発の準備をしていく、医療器材とテントとシュラフを含めると、なんと40キロを越える重さになる。
 長崎の友人には連絡しておいた。

4月29日 午後4時30分発のの長崎行きの飛行機と言う事で不来方と11時に待ち合わせたが、切符の確認が取れない。
 恐らく休日なので事務所の対応が無いものと思われるが、確認する方法がよくわからない、今群馬を出なければ搭乗に間に合うわけが無い。  
 現在はスマホで情報のやり取りをするのだろうけれど、アナログ人間の私はスベを知らない。
 とにかく出発、熊谷駅には予定の1時間遅れでで到着、急いでエスカレーターに乗った、ところ。
 40kgの重さばかりでなく、容量もかさばっており、エスカレーターの段差が出来た所で荷物が持ち上がって階段を転がり始めた。
 私の後方には家族連れが続いており、彼等の方に荷物が転がり始める、必死で抑えようとするがなんと荷物に背負い投げを喰らった。
 私の身体は宙に浮き投げ出されるように家族連れの足元へ。
 この瞬間に思って居たのは子供に怪我をさせてしまわないかの懸念だった、幸い私の身体は彼等の足元に着地した。
 「危ない!危ない!。」と幾度も声を掛けていたが、とっさの事に子供は固まってしまって何の反応も無よける仕草はなかったが
 怪我をさせなかった事に感謝した。
 逆に私は抱き起こされ階上にあがったところで彼等に陳謝とお礼を述べて息を整えた。
 身体は擦り傷の他はたいした怪我はなかった。

 これからも私の苦難は続く。
 予定より一時間遅れの為、新幹線を利用し、東京へ向かうが、乗り換えは品川、京急羽田となるが、この重量の荷物を抱えての移動の大変さは口に出せない。
 その上、搭乗時間も迫っているのに、実に予約番号が不明のまま。
 移動中、時間も間近かに迫ったので不来方に連絡を取って、私のパソコンを確認してもらった。
 おかげで予約番号を確認できたが、搭乗締め切り時間が迫っていた。
 必死に乗換えをし、空港の長い距離を移動し搭乗受付に話をしたのは締め切り5分後だった。
 本来ならここで終わりだが、事務の方が確認に時間がかかった為、優先的に対処してくれる事になり、簡単な検査をすませて担当者が同行して飛行機まで誘導してくれた。
 搭乗口まで、この距離がまた長い、足早に歩く担当者に私は息を切らし必死についていった。
 さて、やっと「飛行機にのれる。」とお待った瞬間、「ライターはお持ちですか。」そう言えば香取線香用に準備したものがあった事を思い出して「あります。」と答えてしまった。
 ここから悪夢が始まった。
 「ライターは持ち込めませんので、出して下さいませんか。」
 当然探してみるが、何処にしまったかは思い出せない、機内持ち込みはだめなので手荷物関係には無いだろうが、トランク、バッグ、かばんと全部開けてみたが、見つからない、「ないと搭乗できないんです。」もう時間が無かったので、私は腹をくくって(この飛行機の)「搭乗はあきらめました。」と告げてライターを探すことにした。
 ちょっと広い一角で、積み込んであった荷物を全部広げて、それこそ見逃しの無いように重箱の隅を探るように調べたが結局見つける事が事ができなかった。
 
 飛行機は18時30分発に変更になる。
 係員の女性が手続きの為、つき添ってくれたが、搭乗の際は荷物チェックからすべてやり直しとなる。
 搭乗は一便遅れる事になるが、時間ができた為、今話題の羽田のショッピングモールを見学することが出来た。

 しかし、これも手回り荷物を引きずっての移動だったから結構大変だった。
 
 この日はこれ以上のアクシデントはなかった、

 長崎に着くと、友人の従業員の出迎えがあり、店に着くと不来方似の若い従業員が食事を用意してくれた。
 
 十数年ぶりの友人との再会、話の談義もあったが、そうそうに、私の為にとってくれておいたホテルに移動した。
 私は野営するつもりで居たが友人は其れを許さなかった。

 4月30日は土曜日である。
 すぐにでも熊本入りを考えたが、目的目標もまったく無しの行動には不安もある。
 遠慮なしに友人の診療室から電話を借り、各行政機関へのアプローチを試みた。
 しかしながら、こちらの期待する返事はまったくと言ってなかった。

・獣医関係の場合と柔道整復師の場合とは災害対応に違いはあるものの、結局災害本部とか県とかに委託されており、それぞれの組織の現場対応はどのようにしているのか不明であった。
 土曜日の事もあって電話連絡がまったく取れない。
 
 電話調査は断念して、直接避難場所へ出向いてみる事にした。

 友人から車を借りることが出来たし、カセットコンロや水なども持参出来る、移動も何とかなりそうだ、食料や診療に必要な調度品をこまごましたものの買出しを行い、夕刻になって宇土市に向かった。

 ここを目標にしたのは友人達のアドバイスがあったからである。
 
 高速道路はちょうど復旧したとのニュースもあったが、私は様子を伺うため一般道を走行していた、8時を回った頃宇土市に到着し、最初に目にしたのは、ニュースで有名になっていた市庁舎の崩落しかけたあの光景だった。
 予期はしていたが、実際に目の当たりにすると、その衝撃には計り知れないものがある。
 周囲は薄暗くはあったか、市庁舎の安全管理の問題なのだろうか、煌々とライトアップされており、幻想的ではあるが異様な雰囲気も充分感じ取れることが出来る。

 周辺を一回りして野営地を探した、公園や役所の駐車場などは余震が続く中、車中泊の人が多いと思っていたが、震災より2週間も経つとそれなりに落ち着いたのだろうか、少ない感じがした。
 敷地はじの一角に車を止めて、テントを張った、SVG大会で河川敷に本部を設置しビバークしていたのはもう10年も前になるだろうか。
 テントでの寝泊りは苦にならない。

 5月1日 日曜日の朝、充分に睡眠はとれた。
 朝6時30分に起床したが、すでに生活の息吹は始まっていた、トイレに向かうと、散歩としている夫婦にすれ違う、軽く挨拶を交わした。
 断水の情報があったのでトイレの水は流れ無いものと思っていたが、試してみると復旧していた。
 これは心情的にも今後の活動の助成となっていった。
 トイレからの帰り道にはシーズの散歩の初老の男性と少しばかり話をさせて頂いた。
 地震の揺れのひどさは想像を絶するが、私たちも群馬で東北震災の揺れを体験した、人々はことごとく「今まで経験した事も無い揺れ。」と発していたが、それでもビルが倒壊するほどの揺れではなかった。
 それらを乗り越えて、現在は落ち着いている様子をうかがわせた。

 宇土市の災害本部にたどり着いた、そこは市の体育館に設置されていたが、思ったより人の流れはない。

 中に入って受付の様子を伺ったが、ボランティア募集はボランティア募集センターが設けられているようで、そちらで統括していたが、災害本部の要請で来ていたボランティアの集団が居た。
 スタッフ用の受付が別に設けられており、そちらでこちらの趣旨を伝え、各避難所の場所を確認したいと申し出た。

 所が、受けてくれた人は「熊本市からの応援で、対応できない、」との返事だった。
 「責任者のほうへ直接お話ください。」との事だった。
 とうの、責任者の方は、先のボランティアの集団に色々と指示を出していたが、一旦中断して事務所に戻ってきたところに私は声を掛けた。
 事情を聞いてくれたが、ボランティア達を送り出さなければならない、と言う事で私は暫し待機をする事になった。
 30分以上の空白があったが、その合間に地元の御老人達と話をした。
 やがて、責任者の方は再び戻ってきたが、今、避難所の確認しますのでお待ちください。
 (一覧の)「コピーをとってきます。」
 との事だった。
 もしかして、「この手の事務は応援の方に指示をすれば済んだ話ではないのか。」と思いつつも、何か事情があるのだろうと話を進めた。
 結局インターネットから情報を引き出し、避難所の確認が出来た。

 各地域の避難所に向かい責任者たちや現場の話も聞けたが、相対的に避難所に居る人々が少なかった。
 色々話を聞くうちにこの日は避難所の再編成が行われており、閉鎖や引越しなどで忙しいのだそうだ。
 
 避難所訪問は一通り8箇所くらい回ったが、人も少なく私が対応する事は何も無かった。

 宇土市を色々回る事になったが、結局被害の主だった所は限局しており、周辺の市街地などは平穏を装っていた。
 コンビニや店は一部の閉店はあるものの殆どは正常に営業しており、飲食店も道路の交通も何も無かったような賑わいを見せている。
 おかげで食事Iに困ることもなく好きなな店に入ることが出来た、近くのパチンコ屋さんでは、炊き出しを行っていた。
 ちなみにカレーだった。
 
 市内の幹線道路の橋は通常走行出来たが古い橋は通行止めになっていました。
 
 たいした成果もなく、結局ボランティア活動を考えても役にたたないのか、と多くの疑問が湧き上がってきたが、「いやいや次回につなげる為の情報は必要だ。」だと何度も自分に鼓舞し言い聞かせた。

 午後は、資料で貰った非難所訪問を続けた、足を伸ばして先端の網戸小学校にたどり着いたのは5時ごろだった、施設は避難所であった名残を残すばかりで、夕焼けと閑散が私を待ち受けていた。
 夕焼け含みの日差しはオレンジ色に輝き、この日も穏やかに暮れようとしていた。

 いちおう、状況を確認したと言う事で、熊本へ行こうと考えたが途中で「あじさいの湯」の看板を見つけて寄り道する事にした。
 時間も過ぎたので住吉自然公園でビバークをする事にした。
 買い置きのライスとラーメンで腹を満たした。
 海沿いの公園だったが内湾の為、波は穏やかで静かな潮騒だった。

 11時を回って就寝。

 5月2日6時30分起床し食事後熊本に向かった。

 九州に入ってから感じた事は気候は穏やかで思ったより涼しかった事、天気も良かった。
 さすが熊本市内は照り返しもきつかったが順調に市庁舎の駐車場に入ることが出来た。
 ここで災害対策とボランティア本部とそれぞれ回ってみた。
 どちらも状況は一段落しているのか係りのの人たちは、余裕を持って、対応してくれた。
 対策メンバーの中には医師も居たが、現在は何処も災害緊急性のあるケースは無いとの事。
 また、この2日も熊本県では避難所の再編成に対応している、と言う事だったので宇土市と同様な状況が予想されましたので被害状況の調査に専念する事にした。

 市庁舎から熊本城までは歩いていける距離なのでまずは、熊本城へ、もちろんテレビなどで放映されている映像をなぞる視察だったが、熊本神宮の社の崩壊は凄まじかった。
 石垣などは間近には寄れないので遠景で何箇所も見学してみたが、この一回りのコースは観光客のお決まりのルート化していた。
 気になるのは飯田丸櫓、石垣1列で本体を支える映像は奇跡的な情景だったが、立ち入り禁止区域内なので直接目のあたりにする事はかなわなかった。
 
 市内のボランティアセンターに向かった。
 ボランティアの募集も特に行われていなかったが、まだ派遣前のグループが残っており、移動待機の状態だった、やがそれもバスなどの車が到着するとそそくさと乗りこんで行った。

 市街地の公園ではテントを張っている様子も伺えたが、思ったより少なく感じていた。
 ここで、グループの責任者の方と話をしてみたが、答えは市庁舎と同じだった。

 この後は小泉八雲が熊本滞在の折、居住していた建物が残っていると言うので回ってみた。
 こじんまりとした和風の家だったが、その裏手のビルでは補修工事が行われていた、殆どの町並みは地震の影響が一見無いように見えたが、ところどころでこんな工事が行われていた。

 ここで益城町に向かってみる事にした、暗くなり始め頃、ちょうどスーパー温泉があったので汗を流した後、スーパーマーケットで夕食の買い物をして熊本市の巨大スタジアムの駐車場にて、ビバークとなる。

 5月3日 早朝に益城町に向かう、熊本市内を抜けて町に入るときは広大な田畑の風景と遥か遠くには阿蘇の連山らしきものが目に入った。
 「関東ではちょっと見ない風景だなあ。」と思いつつ先を急いだ。
 益城町の市庁舎は無事で起動していた、しかし、全体的にあわただしさはまったくなく、ぽっぽつと水を取りに来る人が居るくらいだった。

 街を歩いてみた、ここで色々なことが判った。

・ 益城町の中心には川があって、河川周辺の建物の崩落か強い事。
・ 2階建ての家は1階がつぶれてしまうこと。
・ 石垣類が意外に弱く、建物が無事でも石垣か゛崩れてしまうこと。
・ 今回の視察では火災の被害が見受けられなかった事。

 動物愛護関係では街の愛護センターで保護されてると言う事だったが、およそ40頭。
 えさとか、ケージ類の応援は充分で、私見ではむしろ余っている様にみえた。
 まだ、休日中なので ケージの貸与が出来ていない話ではあったが。
 ここの、事務棟の土台もくずれかけていた。
 
 益城町内でも避難所はできていたが、総合体育館が避難所の中心らしく、そちらへ回ってみることにした。

 こちらの施設は広大で、室内スポーツ用の施設と、アウトドアスポーツ用のトラックまであり、室内居住はもとより、アウトサイドではテント類が壮観に立ち並んでいた。
 室内ではプライベートに気をつかうが、テントで生活の昼間では暑くて耐えられないのだそうだ。
 テント用のソーラーエアコンでも開発できないものか。

 柔道整復師の被災者の先生が声を掛けてくれて少しばかり話が聞けた。
 診療が出来なくなり被災生活が続いているとの事だった。

 ペット関係のシェルターがあると言うので、色々探し回ったが、本当に外れのそのまた外側と言う感じで一角に収まっていた。

 夕刻になって、長崎に戻ることにした。
 一般道で4、5時間掛かるので、8時を回ったところの公園でビバークした。

 NGO団体ピースウィンズわんこジャパン。
 この団体は14日に被災の一報があると15日には現地入りしイヌの保護にあたっていたと言う。
 16日の本震も体験していると言う。
 ここで、ペットと一緒に居住できると言うドーム型テントを40張り、現在は76張りを準備していると言う。
 体育館で非難している人の中にはペット同居の方もちらほら見受けられ、周辺の方たちとはトラブルもなさそうだった。
 尤も小型犬ばかりではあったが。
 体育館の中でも餌の配布があったが、こちらでも配布があった。
 獣医の在駐はないが、福岡V-MATの先生が1週間に一度来訪するとの事だったが後に体育館を視察中偶然にも群馬であったF先生と挨拶を交わすことが出来た。
 ピースわんこではイヌのみの対応しかしていないという、是非、猫を含む動物対応も考えて欲しい。

 ○昼食の時間だった。
 そばに居たボランティアスタッフに聞いてみた。
 「食事はどうしているの?」「自分達で用意してます、被災者の方の分を取る事になりますから。」
 団体さんも同様だと言う事だった。
 体育館の外に出ると被災者らしき人たちの列があった。
 炊き出しの順番待ちだった、中身に興味があったので除いてみるとおいしそうな肉の塊が数種類、ご飯に乗っかっていた。
 館内に戻って年寄り達の仕草を観察していると放送があった。
 「(炊き出しからのお知らせです)まだ余裕がありますのでご希望の方はお越し下さい、」
 で、ご相伴に預かりました、とてもおいしかったです。

・被災家屋の中に取り残された猫が居た。
 寂しそうな声を掛けられたので、その方向に振り向くと、瓦礫の傍にこちらを向いて品のある姿を見せていた。
 やつれた様子はないが、空腹なのだろうと勝手に思い込んだ。
 周辺を探ってみるが餌と水を与えている様子が無いので、一旦ピースわんこの本部に戻って猫のえさを分けてもらった。
 実は、周辺を視察中に猫の存在を確認できた場所が3ヶ所確認できていたので、せめて餌を置いておこうと考えたのである。
 しかし、猫の場合飼い主さんが居るのか、野良猫なのか区別が出来ない、猫自体が野良で地域に迷惑かけている場合がある。
 地域猫の場合もあるだろうけれど、保護しても、こういった事でのちのち問題が発生することも考えられる。
 ピースわんこでは猫には対処仕切れない.理由の1つかもしれない。
 全出の猫の所に、餌を抱えて戻ると飼い主さんらしき初老の夫婦に出会った。
 事情を説明して、話をすると「一日に一回は(様子を見に)やってくるんです。」猫に優しそうに話しかけていた。
 瓦礫と化してしまった、かつての家屋を背に、それでも悲惨の表情をおくびにもださず対応してくれた。
「お大事にどうぞ。」と声をかけその場を離れた。

 まとめ。
 獣医師として、柔道整復師としてボランティアにどのように活動できるものか。
 それらを検索の旅となった。

 結局、特殊技術者としては、今回はまったく「役に立つ」と言う事は無かったと思う。
 それは第1に被災地域が比較的限定的に発生しており、地域性が高いと言う事。
 地域性が高いと言う事は、時間が経てば周囲からの援助体制が整うので被災後2週間の現況では医療関係では通常通りの診療が行われているからです。
 V-MATと言うからには初期出動が大事で、少なくとも3日以内、長くても1週間以内が災害緊急活動として発動しなければ意味がない事を痛切に感じるに至りました。
 
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正月2日と有って買い物散歩を始めようとした矢先に、移動式電気階段の向こうから、お女中が私の前に足早に駆け寄ってくる、すわ!何事ぞ!
そこに待ち構えていた侍が、このお女中に話しかけている。
狙いはこのお女中の持っている密書のようだ。
この女、意外に手ごわいので、侍側には助っ人の黒ニンジャも加わると形勢は逆転・・・あわや、このお女中の運命はいかに。・・・・・・
ダンダラッタダンダンダン♪(曲タブー、カトチャンがちょっとだけやるやつ)とばかりに着物を脱ぎ捨てると、この女、実はくノ一だった。

ここで碧雲斎登場となればよいが、現れたのは雪村でござった、いくら爺様がいとこ同士の血縁の架空の人物とは言え、同じ真田をなのるもの同士、手助けしようかと様子を伺うが、見事2人と渡り合っておった。
この人物が雪村かどうかはわからないが、「大河ドラマがある。」と言っていたので、そうかもしれない。

一見落着の様子が伺えたが、この悪党を成敗するする人を募集するとの事、10名のうち5人が選抜された。
成功すると真田のカブトに貼り付けける角(印刷物セット6文銭つき)が貰えるという。
最初の二人は3歳位のキジ、侍は無理矢理斬られておった。
次の二人は韓国製の若いイヌ、まぁ言われたとおりの写真用のピースきめポーズが入った。
最後に私碧雲斎が名乗りを挙げておった、私服なので躊躇しておったのだが、”義を見てせざるは勇なきなり”と助っ人に入ったのである。
(本当はカブトの角を貰えると有っての参加、ついでに言えば私はサルではない。)
ここで参加にあって、名前を聞かれた、「ハスラー」だと名乗ってしまった、ばかだねー、碧雲斎になり切っていなかったのである。
でも「本気で斬っていいですか。」と司会者伝えると、この司会者は相手の侍に密告しておった。
雪村の模造刀を借りようとしたが、さすがに金属性には危険を感じたのか手渡されたのは短めのプラ製。

さて、相対し、セリフ「そこな女の難儀を見ては捨ててはおけぬ、狼獪なやからと見た、命が惜しくは立ち去れい。」などと言えればよかったが、司会者からの指定の言葉は「かかってきなさい。」の一言、素直に応じてしまった。
碧雲斎もまだまだやなあ。
しかし、渾身の一撃がある、合気道で培ったこの一撃を気合とともに相手に放った。
「えっーい!!」あいてはその勢いに大きく仰け反るが、そこは相手もプロ見事に斬られる演技を続ける。
すると、見ていた観客が「おー!!」と大きく湧いて次の瞬間には思わずなのだろう拍手までくれた、喝采である。
これに気をよくした私は空いていた胴を切り払うと侍は床に倒れて、まだ、もがき続けていた。
そこにすかさず司会者がやってきて「止めをさして下さい。」と耳打ちをしてくる。
実は「決めて(ポーズ、写真用)下さい。」と言ったのだが私には「とどめをさす。」にしか聞こえなかったのである。  

解剖学的に鎖骨上部の頚静脈を上部から胸腔内にむかって差し込む形で刀をたて絶命を図った。
これがまた決まったので、拍手が鳴り止まなかった。
アキハバラの出来事であった。
油断するものではない、敵は何処に潜んでいるか判らない。
 碧雲斎100番勝負、その1 [狼藉]侍 刺殺

[2016年正月2日申年]

編集後記
高崎グルメフェスでニンジャにであった、不審な輩なので取り押さえたかったが、勝負の前に雲隠れされてしまった。
私服の場合に限って、時代の人物に出会う事が多い、考えてみれば私服で人の大勢いる場所に出向くのだからいろんなイベントに遭遇する機会が多いのは当然で、今回も電気ビルの一角にて正月イベントで行われたものだった。
碧雲斎は人が多い所は実は苦手で恥ずかしいのである、だから私服で買い物をする訳なのだが、しかし偶然にもこんなイベントに出会ってしまうと参加してみたくなってしまう、参加する以上はこちらも碧雲斎で登場すればよいのだが、これは克服しなければならないテーマなのかなあ、次回は思い切ってアキハバラにでも行ってみますか。
川越もあるし。

東京から群馬県に移住してきて大泉町に在住しているが、ここから群馬県内を彷徨するのは近年になってからの事で、其れもここ数年の話ではある。
東京で育っていたが、縁があって33歳の時に縁戚を頼っての移住だった。
群馬に住んで最初に感じた事は、道路の状況だった。
東京では何処も大渋滞が起こっており周辺を通過するだけでも大変な作業だったが、群馬では殆どの所はスムーズに通過できる、実に渋滞がないのではある。
もちろん、信号3,4回待ち程度の渋滞はあるかもしれないし、地元の連中は、「渋滞」と言うかもしれないが、都会ではあんなものを渋滞とは言わないのである。
私が群馬に住むようになっての最初の印象は(運転していて)「これこそ道路だ!!」と実感した事だった。
所が、群馬の太田から、館林の地域は東毛地区と呼ばれ群馬では半島状態で周囲は栃木、茨城、埼玉に囲まれた特異な地勢になっていた。

だから、この半島から群馬の中心地域、前橋に行くのに、高崎、伊勢崎などは通過地点でしかなかった。
もちろん、若い頃はスキーに志賀高原、ほたか、沼田、草津、旅歩きに群馬には縁がない訳ではなかったが、甘楽町を含む富岡周辺あたりはまったくと言っても良いほど訪れる事はなかった。

 近距離の周辺探索に目覚め、多くの史跡資料館がある事で、さんぽをかねての探索は、興味が尽きない、そして奥が深いので余暇を楽しむ1つの構図になっている。

 高崎は通過地点である。
考えて見ると、高崎の事は何1つ知らない、獣医師会館があるので、年に2~3度は訪れるが街中に行った事は無かった。
先週V-MAT(人間のD-MATの動物版)の講習会があったので市民会館を訪れた。
ここに、高崎市のポスターがあり、高崎城の乾櫓の写真を見つけた。
ネットでの下調べては石垣などのほかは公園化されたり市庁舎となっていたりしたので趣しか感じられなかったが、これは往年の姿を想像するには充分な広さを感じた。

おりしも、グルメフェステバルも開催されており、こちらの見学と昼食がメインになってしまって、高崎城跡地の散歩は小1時間ほどだったろうか。
趣のある乾櫓から石垣の上が散歩道となり、堀沿いに歩みを進めた。
都会周辺の散歩道を探すのは至難の業である。
偶然が偶然を重ね意外な発見があれば新しく興味が湧いたりするが、偶然もそうあるものでもない。
市庁舎でガイドブックを見出し、次への移動ポイントを目策した。
お城が目に付いたが、時間の都合で歴史民族資料館に赴く事にした。

車を移動すること30分位だったろうか、354の旧道を太田方面へ東行した、ナビもあったが、ナビの感覚と人間の感覚がすべてマッチするとは限らず、不来方は通りすぎてしまった。
看板、案内図も確認できなかったので、通りすぎてしまうのは仕方が無い、一瞬見据えた建物が、そうだろうと、Uターンする、幸い
交通量も少ないのでその辺は楽だった。
入り口は民間の駐車場の空き地だった、見据えた建物は外観は木造の小学校風なので、そう想像して中に入る。
と、まもなく女性が現れて応対してくれる、「お靴は上履きに履き替えてくださいな。」と見上げると、なんと壮麗の美女、あたふた
する私に何か言ってたように思えるが、私はすでに放心状態だった。
会話もしどろもどろになり、交わす言葉も少なく・・・・・と言う訳ではではないが、入り口すぐにある「藁」をテーマにした特別展示室に入った。

ここで彼女は「わら」を特集する意味を語っていたように思えるが、じつは私は「わら」などにそれほど興味はなかった、藁に直接触
れていた期間もあったし、生活用品だし、田んぼではいくらでも稲藁は手に入ると思っていた、なので余りにも身近すぎている。
に反して、彼女は「藁」を強調する、「どして?」と思いつつ、彼女の説明に耳を傾けていると、最後には「そうだ、彼女は正しい、
もっと[藁]を大切にしよう。」と思ったのは私だけではないだろう。
彼女が言うには藁は、「お金をだして買うもの。」になっていると言う、「え゛ー。」そう、刈り入れと同時に粉砕して仕舞うから藁としての形はないのである。

「なるほど。」と思いつつも、藁があっても使い道がないもんなあ、せいぜい、登山の水気が多い場所での滑り止めで重宝されているワラジ位だよなあ。 
藁縄かい、米俵かい、藁蓑かい、米櫃かい、雪靴かい、ワラの中は空洞になっていて、ストローに使われているのは知られているが(ストローStraw=ワラ)保温性も良い、その利点が重宝されて色々な民具に加工されているけれど、みんな他の材質に変わってるもんなあ。
藁文化があった事を伝承するのにはいいかもしれない、でも力は弱いかもしれないね。
彼女はそれなりに説明をしてくれたが、展示物の解説をして頂けれるのか状況が判らないので、話が途切れてしまった、彼女にとっても何処まで開設したらいいか、好意の遠慮もあったかもしれない。。
この時彼女が学芸員だと知らす、其れを知るのは最後の事なので、続けて案内を頼む事無く、遠慮してしまった。
案内を頂けるのならば遠慮なくお願いするものを。
 昨今色々な施設でボランティアの方が案内してくれるので、其れはあった方が話は膨らむ。

常設展示物で1階部分のテーマは「昭和メトロ」と言うものか、明治から昭和にかけてのもの、ノスタルジック満載であるが私が引っ掛かったのは「駄菓子屋さん」それも古く小汚い1室、小さい机と座布団かあり、今にもそこにおばあさんが座っていそうだった。
置いてある商品は当時としてはありきたり、経験のある私にも当たり前すぎるもの。
しかし其れを楽しんだ。
展示物の多くのものは下手をすると慣れ親しんだもの,それ以上の価値は有るが、余りにも当たり前。
いつも思う事ながら生活で使っているものはその場で使ってみたい願望がある。
先日訪れた、遠野の民話館では語り部のおばあさんが実際に囲炉裏を囲んで話をしていた、江戸東京建物館では、囲炉裏でのお茶コーナーもあって、ボランティアさんがお茶を出してくれていた。
 思い切ってかまどのお茶をだしたり、塩おにぎりで沢庵なんてメニューも楽しいやね。
 乾いた台所って誇りっぽいが、水が潤沢に流れているシンクは活力があって美しい、生活用品は使ってナンボだと思うよね。
勝手な考察でした。

2階展示室は大東亜戦争時代[日本では2次戦時代をこう呼称した、米は太平洋戦争と言う呼称に変更した]の群馬の状況が展示されており、群馬県はそれこそ軍馬の供出産地だったと言う。
2次戦時代をちょっと垣間見るには興味が尽きない。
そのほか、生活用品に加えて、江戸時代のものも展示されていた。
一通りみ終えて、帰ろうとしたら、くだんの学芸員さんが見送りでてくれた。
しかし、なんとそこから次の展開が始まった、挙句にはたおり機の特別展示が成されていると言うので、興味深く拝見させて頂きました。

 
2015年12月23日天皇誕生日

前回12月13日の碧雲塾の高崎巡行では、これだけの大都市でありながら歴史的建造物の保存がお粗末だと言う事は実感していたが、歴史資料館の学芸員さんから鎌倉街道をテーマに話が聞けると言うので約束を取り付け、本日の再訪問を期する事になる。 大泉町の名物では草もちが評判がよく、揚げかりんとうと共に手土産代わりに持参した。
みんなで一緒に食べようと楽しみにしていたが、この点はお茶も出ず、ただ届けるだけの展開だった。
学芸員さん(Mさんとよびます)は、どちらかと言うと実直な学者肌の方のようで、私達に的確な情報を提供しようと苦慮されたよう
で、他のことには気が回らなかったようには思える。
鎌倉街道ばかりではなく、中仙道、そして群馬県内にある多くの街道の中で高崎地区の街道筋の建物は殆ど整備されていない、振興地域なのか土着の気質なのか、そういった事に執着しないのでないだろうか、古い建物でも何でもどんどん壊しては立て直してしまうのだそうである。
Mさんは発掘のエキスパートなのか、縄文時代の発掘品の話はよくされていた。
で、わたしが「縄文時代のものは(日本全国)何処でも発掘されており、どれも似たような(内容に)に見える。」と言いますと、「でも厳密には時代があるんですけどね。」其れはそうかもしれないが、発掘の世界は建造物が無ければないほど、学術的になり、専門
家でなければ想像がつかない世界。 
ここに「気軽に散歩しましょう。」の軽いのりでは太刀打ちできない。
若い二人のうち九曜丸はここの資料館は始めての歴訪だったので不来方に案内をたのんだ。
その間、Mさん、こうなったら考古学の先生ですね、彼女との頭の痛い応酬が続いた。
結果、高崎での街道筋の散歩は好奇に耐えるような内容でない事が確認できてしまった。
高崎城の完璧な図面が残っており復元は可能だが市政の方針だか予算の関係だか、構築の予定はないとの事。

「中仙道上州七宿めぐり散策図」と言うパンフを見せてくれた。
各宿の浮世絵が掲載されており、旧家屋の案内や写真まで添えられあったので、これは大いに期待が持てた。
時間も過ぎましたので、最後に私達の活動の一環としてちょっとしたイベントと言う事で組太刀を披露する事になりました。
男性職員さん2人も見学に加わりましたが、「合気道ってこういうものでしたか。」疑問を投げかけられましたが、すぐに体術に応用が利く事を説明に加えました。
やはり合気道は見て頂くのが一番よいとは思いますが剣だけだと「誤解されるのかなあ。」と一考すべき課題となりました。
3時を回りましたが、七宿を回ってみようかと言う事になり、倉賀野宿へ向かいました。

目指すは「須賀脇本陣。」 
車をおりて街道の道筋を歩くこと10分、ただのとょっと豪華な家の前に立ち、人の気配は感じられないながらも、インターホンは生きており、またまた、監視カメラが設置してあったりしてましたが、周辺ところか中の見学もなし。
写真を撮ると埃っぽく、車の往来が激しい街道を歩いておりますと、なんと和菓子屋さんがあったので、甘いもの欲しさと、草もちの
リベンジはたすために入店。
「あああったかいお茶、」「おいしい草もち」ちょっと疲れた身体を癒すべく至福のひと時が訪れるかと思った瞬間でした。
はい、はい!!見事に裏切られましたね、私はごまの棒菓子、2人はイチゴ大福やら黒糖饅頭を買っておりました。
宿の外れ付近まで行って安楽寺さんでお参りし引き返す、途中で浄土宗のお寺さんがあった、のでちっと立ち寄るつもりがおおつらえむきな休憩所があったので、ここで一休み、談笑と共に二人はいちご大福を食べていた。
寒風の中ではあったが、しばしの休憩は取れた。

これで高崎管内の中仙道七宿とは名ばかりを露呈してしまった。
高崎からさきの宿はまだ確認は取れていないが、多分「残念だろう。」は大いに予想される。
見参はいつになる事やら。

 高崎宿-----市歴史資料館‐‐‐‐‐倉賀野駅周辺散策暗くなってしまったので、途中離脱、散歩時間1時間30分ほど。

栃木市2015.7.20

滔滔と流れる水面は強烈な光を反射して話しかけてくる。
「生きるとは何か。」「いきているとはなにか。」「生きていていいのだろうか。」人生は楽しいことばかりではなく嫌なこと辛い事も多々ある。


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木々は緑に溢れ街道は通り行く雨に輝き、風は穏やかに且つ優しく頬をなでていった。
7月初旬 5日のこの時期にしてはめずらしく、暑くもなく寒くもなく、雲の厚い曇天ではあるが体を動かすには、むしろ快適な陽気だった。

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不来方です。
今回は旅先や遭難中などに使えるコンパスを使わずに方角を知る方法を解説します。

行ったことのない土地で行動する際に大体パンフなどに記載された地図を活用することが多いのですが、未知の場所というのは方向感覚も掴みづらいものです。方向がわからなければ地図も読めません。
迷った時は地元の人に聞いて見るのも一興ですが、せめて方角くらいは前提として自分で把握しておきたいものですよね。

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6月7日午後
今回は同じ合気道場のH氏も同行して3人で柄杓山城跡(桐生城)へ向かった。


ウオー!!、ウワー!!、ウオー!!

黒漆で防水を施した菅笠の背中側には、白い日よけ布がつけられていた。
初夏ではあるが強い日差しは容赦なく降り注ぐ、白い布をひらひらと激しくゆらせながら気勢を上げる雑兵たち、手には槍を持ち、勢いよく城壁を上ろうとするがその急壁にしがみつくだけで精一杯、それでも前に進まなければならない、一人、また一人と敵の攻撃にあい、瞬く間にがけ下へと崩れ落ちていく往年の戦のまっただの中に我々は居た。

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新田金山城(金山城)は太田市の中央にそびえる標高235.8mの独立峰の金山に築かれた城です。

天守閣を持つ城よりも古い時代に造られた城で、金山全体の自然地形を利用して造られた「山城」という種類の城となります。
現在は城の曲輪のみが残されており、本丸跡とされている地点には新田神社があります。

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